流行りものに対しては、世間様がガンガン取り入れられた後にようやく腰をあげる、トロくさい人生を生きておりますワタクシめ。
…にとりましては、「えっ、もう2作目?」という、早すぎる『アナ雪2』が劇場公開となりました。
『2』が世間様をブンブンにぎわしている今、
ようやく、第一作目を見ることができました(^^;)。
『アナ雪2』の“復習”のためらしい、もう何回目かわからないくらいのテレビ放映で。
ありがたく、人生初『アナ雪』の恩恵にあずからせていただきました。
テレビのロードショーって…
映画館に行くとかDVD借りに行くとかしないですむわけですからね…ありがたいですね(←どれだけめんどくさがりなのか(^_^;))。
おもしろかったです。
ディズニーアニメの王道(?)の、マネキン人形が優雅に動いてるっぽい感は、少なくとも2人のヒロインにはまったくなく。
表情はかわいくクルクルと動き、なめらかな手の表情もふくめて、いっときもキャラがじっとしていないのに、うるさくない、見よい、という作りのすごさに、「う・わ~」と口を開けて2時間見ていました。
人の動作っていろんなむだな動きがあって、それがふつうなんですが。
映画は始めから終わりまで、 超リズミカル な茶道師範の所作を見ているような感じでした。 必要なものだけが集約されて。
それが2時間ぶっとおしなので、ディズニーのアニメーター達は完成をみるころにはゾンビだったにちがいないと思うんですが。
そういう、見る人の心地よさに完璧なまでに奉仕する、制作者の恐ろしい執念というものをこの映画でも見ました。
長い前ふり、失礼しました。
本論です。
ストーリーがまさかこんなにシンプルだとは思わなくて 、驚愕でした。
公式you tubeで公開当時からものすごい再生回数で出ていたエルサの『Let it go』。
その冒頭、長いドレスのすそを引きずり、1人吹雪の山の中を、肩落として歩くエルサのささやくような歌いだしを聞いたとき、“このひと、国でいったい何をしでかしたのか…?”と想像して、聴くたびドキドキしたものでしたが。
今回全編をみて。
「氷を生産しちゃう超能力…それを人前で使った…と。な~んだ、だれも傷つけてないんだから、そんなひとり吹雪の山中になんか逃げこまなくても…」。
ドラマでひとが逃亡する先って、「南」ではなく、たしかに「北」が多いですね。
「超能力が人に知れたら、逃げる理由として十分だろが。 」 と思われた方、お願い殴らないで。 とにかく、それがないとこの話始まらないわけなんですよね。
ちょっと脱線
すみません、気になることでちょっと脱線。
エルサのお城って、全部氷でできていますよね。ぜんぶ…? ほんとに?
あのつまり、生きてる人間なら必然的にさけられない、煮炊きとかお風呂とかトイレとか、どうしてらっしゃるのかしら…とか…、
妹姫がギャルで、姉姫が隠遁者。すると、国政は誰が…?
テーマと関係ないところにつっこんでしまうアタシに、この映画見る資格はないわね!と、おののきつつ拝見しました。(^_^;) ディ…ディズニー様、お許しを。
物語のシンプルさ
というわけでラストまで見て思いましたのは、全世界をとりこにしたのは、この物語の“シンプルさ”によるものなのだね、という納得でした。
エルサの唯一の出奔理由が。
家族問題とか恋愛のいざこざとかアタシの性格どうにかなんないのとか、ドラマで展開していきそうな路線は思いきってばっさりとすてて。
「能力がある、けれど思うさま野に放てば、人を傷つけかねない」という問題だけがあり。
人界に無理やり、エルサを引き戻したアナは、その姉の能力のために凍りつく。
そのアナのための自分の涙が、国を覆う氷も溶かし、妹も生き返らせることができるとヒロインは気づく。
能力を能力のままにしておけば、つまるところ刃(やいば)にも育ちかねないけれど。
人のために、自分のために、という気持ちさえあれば、鋼(はがね)も優しい愛に変換されて、奇跡も起こすことができる…
というメッセージですね。いえ私論です。
個人のもつ個性というもの。特殊能力、性格、知識、才覚、趣味、嗜好、信念、感性、あらゆるものにそれは言えると思います。
それを❝他者との暮らしの中で上手く飼う❞ためのシンプルなメッセージを、どストレートに伝えるために、ほかの枝葉を全て伐り払いまくった手腕の勝利というか。
いい映画でした。
ぜひ『アナ雪2』も見たいと思います。もし作られるとして、 『アナ雪3』がせめて劇場にかかるころには…み…見たいです( ̄▽ ̄;)。