〈個の尊重〉へのプロセス~日本での新型肺炎の意味をちょっと考えてみました。

神々しい山の峰と雲海
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新型肺炎が世界中を席巻している昨今、皆様お元気でしょうか。

現在のような状況はだれもがきっと初めてで、世界中が中世の時代にタイムスリップしちゃったの?という気が管理人などはいたしました。

状況の見えない不安を解消したいため 、無意識的にトレペなどの買いだめに走られる方も多いのだろうと思います。

この、インフルエンザの時などと何かが決定的に違う、ゴールの見えない、終わりの感じられない感は何だろう、と考えてみました。

結論から先に言うと、 もう古いシステムでは合わない人のほうが増える一方なのだから、人類が生き延びるためには、このへんで意識的に新しいシステムに変えていかなければ――ということなのではないかと思いました。

日本での新型肺炎の意味とは、具体的には。

「学校のリモート授業」、「会社のリモートワーク」のシステムが、臨時でなく、常態で、だれにも選択可能な選択肢として平常時にも確立されるため。と、言ってしまえるのではないかと。

――と、管理人は個人的には思いました。

以下、そのこころは。です。

全国一斉休校となった時にまず感じたのは、「日本で学校に通っている人全員が、不登校の人と同じ状況に置かれた」という事実でした。

平成30年度の統計で、日本で不登校の問題で苦しむお子さん は22万人、たぶん実際はもっと沢山いらっしゃるんじゃないかと思うんですが、しかも年々増加の一途にあります。

その彼らに対して、大人の私達はというか、私も含めた❝社会❞は、 根本的にはなにひとつしてあげられていない、当人やそのご家族が孤独を深めどうどうめぐりを繰り返している状況に孤立させたままなのです。

社会が彼らに共感を持てていないこの状態でできることといえば。つまり、意識的でなく無意識的に、彼らにしてあげられる唯一の方法は。

「国中の生徒がともに不登校となる。」

ということだったのではないかと、新型肺炎による今の状況を見ていて気がついたのです。

全員が学校に行けない、という状況になれば、がぜん大人達は動き出します。

「子供が登校せずに勉強できる方法」が否も応もなく考え出されます。

そして、結果的に不登校の人たちが生きられる状況もようやく整えられることになる、と。

これは職場において、現在出社でなくリモートワークが推奨されている、ということについても、同じ意味づけができるのではと思います。

新卒で正社員となり、合わない人間関係に自律神経を痛めながら社用の人格をかぶって這ってでも会社に行き続ける。

これが「王道」とすれば。

「王道を歩いていない人」が今の日本で人権を持って生きていけるようになるためには、国中で王道から外れてみなくちゃだぜ――ということなのではないかと。

先の不登校や色んな理由で学校へ通うのが困難な人への無関心さと同じに、社会が王道から外れた社会人への共感を意識的に持てていないために、無意識的に、国中の社会人が王道から外れた状態になっているということではないかと。

という「目からうろこの対処法」 ――地上の人間の身ではちょっと思いつけない――が、新型肺炎によって行われているのではないかと感じたのです。

ヘッドにいる人間だけが人間とみなされ、ほかの人々は心をもたないパーツと見なされ人間性は尊重されないありかたに、もはや社会として限界が来ているのではないかと思います。

人を家屋に例えるなら、これまで家の❝ファサード(前面)❞だけが二次元的に見えていて、それで良しとされていた時代から、家屋内部の「空間」つまりホームを三次元的に見る、そのひと個人の状況や心象をとらえて見る――それが人を人として扱う、つまり人間性を尊重するという視点だと思います。

いままで内気だったり繊細だったり人格者だったりする人々の特別なつまり少数派の見方とされる視点を、だれもがもつように要求される時代の、現在は端緒についているのではないかと思うのです。

――たとえば 朝、学校へ行って人で埋まった教室で勉強し、帰るまでほぼ同じ空間で何十人という他人と行動を共にする。

という、何も意識せず人が密集していたときから一転して―― とつぜん教室に2メートル間隔で生徒が座った場合――

「あっ!?」という感じにならないでしょうか。

「人だ!」

(不特定多数の❝生徒❞ではなく)「〇〇□□さんだ!」

というふうに、否応なく名前や家庭、状況…etcをもつ1人の人間として見えてくるのではないでしょうか。

このミッションは、日本限定ではなく樹の幹のように世界共通の課題でもあると思うのですが。

たとえばアメリカなら、国民皆保険がないために医療が満足に受けられない人々への共感のなさが、今回の件で制度として改められていくかもしれないし、イタリアなら、医療機関が縮小される以前の医療体制にまた戻ることになるかもしれないし、など国によって「枝葉」の部分は、それぞれに異なる意味づけが加わると思います。

人間が、意識的というレベルではそのつもりがまったくないとき、期せずして解決策が行われるために、人間によらない状況が起こってくる、ということのような気がしてならないのでした。

ゴールが見えないこの感じは、いちど収束されてしまえばそれで良しというか終わり、ではないからなのでは、という気がするんですね。

なので新型肺炎が起きていることの日本での意味は、 具体的には、

学校のリモート授業」、「会社のリモートワーク」のシステムが、臨時でなく、常態で、だれにも選択可能な選択肢として平常時にも確立されるため。

色んな意味づけができると思うのですが、管理人が勝手に考えた、日本での2つの大きな意味としては、このようなものではないかと思いました。