『教場Ⅲ  Requiem』師があることの光

この映画の以前にあるドラマも映画バージョンもすべて見ましたが、あるいは経緯をいっさい知らなくても、この映画だけで相当なインパクトを受けることは確かであります。

このシリーズを見て警察官になりたいとは1度も思わなかったのですが(個人の見解です)、作者もドラマの作り手もそのために作ってはいないと思うので…というのも。

これは警察学校あるいは刑事の捜査にあたる現場を舞台にした物語であるけれども、その前に、これは「師弟の物語」であると思うからです。

このシリーズの「師弟」関係とは、「卒業できずに途中で辞めていった者も私の生徒だ。生徒諸君、卒業おめでとう。」という、Requiemの予告編に流れるこの言葉に集約されています。

この2つのフレーズは実際の映画の中では同時には語られないのですが、映画のインパクトから少し時間をおいたとき、とくに最初の言葉が、風間公親という人の負っている使命として浮かび上がってくるのでした。

卒業できずに辞めていった者も風間公親氏の中では(おそらくは死ぬまで)記憶され、追跡が可能ならその人生の終わる日までそっと見守り続けるのではないか。

独り言を言っているようで恐縮です。映画の内容を説明しないで説明するのが難しいのですが、「風間公親氏の使命」は、連続ドラマ『教場0』の最終回の風間指導官の秘書嬢のセリフにも見ることができます。

「あの日、あの雨の日の朝、遠野さんが言ったんです。”事件と向き合って打ちのめされて、何度も泣きたくなった”って。でも、”指導官がいれば、希望が見えた”って。」

遠野氏とは、風間氏が警察学校の教官になるきっかけを作った殉職した新米刑事で「僕は、刑事になれませんか」という言葉を残して絶命した、という経緯があります。が、それはともかく。

職場であれどこであれ、要は人の人生に「師が存在する」ということの光をこのシリーズは示していて、そのために見る(読む)者の心をつかんで離さない、のではないかと思うのです。

木村拓哉氏という俳優がトレンディドラマに出ていた頃、仕事が忙しく見ていなかったので、その演技を見始めたのは氏が渋い年齢になり始めた辺りからでしたが、それは突然一介の学校教師が首相になる、というドラマで、設定に無理が(個人の見解です)と思いながら見ていたところびっくりしました。いち教師から突然首相になり右往左往する。けれどそれゆえこれまでの職業政治家が決して発見できなかった道を見いだし実行するようになる、という役柄にほんとうに見えたということがでした。

思うに氏ご本人は普通にまっとうなひとで、ただ俳優という使命についたとき、フカヒレになり得るということではないかと思うのです。フカヒレというのは高級食材として有名ですが、それ自体には味はなく、ダシの旨味をすべて吸収しうるために結果たいへんな美味になるというものなので、それと同じように、ドラマに設定されたシチュエーションをすべて吸収し凝縮し、実際にいるとしか思えない存在として表現しうる、という一種人外の(褒めています)才能をもった俳優なのではないかと思うのです。

というわけで、弟子は命がけで諭し守るシャーロック▪ホームズという古今に類を見ない人物がテレビやスクリーンに顕現することになったわけですが、何がありがたいといって。

吉本ばなな氏の『キッチン』に収録されている『ムーンライト▪シャドウ』という物語があります。お互い恋人を事故で失くした少年と少女が登場しますが、立ち直るために少女は毎朝のジョギングを始め、恐ろしく変わり者だった少年のほうは亡き恋人のセーラー服(上下)を着て毎日登校するというくだりがあります。それまで心にハリをもたせていた存在が失われしぼんだ心にもう一度ハリをもたせるために、変わり者でない少女のほうはジョギングで十分だったが少年のほうはそのぐらい奇抜なことをしないと自分を保てなかったと説明されているのですが、何が言いたいかというと。

『教場Ⅲ Requiem』はしぼんだ心にハリをもたせるためのジョギングにも亡き恋人のセーラー服にもなり得る、そのくらいのインパクトがある、ということを言いたかったのでした。

自分が自分だけを見ているとき、自分を定義する言葉は自分の中から出てくるため苛烈を極め、うちひしがれて立ち上がることを得ませんが、師があって、自分が立ち上がって行くべき道を進めたとしてその道の上に師が立っていてくれたとしたら、自分の中から無尽蔵にくりだされる罵りを一瞬無化して、つかまりながらも立ち上がることを可能にするのではないかと思うのです。

だからこそこのシリーズの経緯を知らない方にもぜひいちど見ていただきたい、『教場ⅢRequiem』はそういう物語だと思うのです。

令和8年3月2日   4:04 記